社会保険労務士法人 HMパートナーズ
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サイニングボーナス
1年以内に退職したらサイニングボーナスを返還する約束になっていたので、返還させた。
※本事例は、判例等をもとに脚色して作成しています。法知識が正確に伝わるようできる限り努力していますが、実際の事件にはさまざまな要素が複雑に絡んできます。同様の判断が類似の案件に必ず下されるとは限りませんので、ご注意下さい。
事件の経緯
P社は、MBAホルダーであり、数々の輝かしい経歴を持つAさんをヘッドハンティングによって採用しました。
Aさんは平成13年7月1日付でP社へ入社しましたが、その条件は以下の通りです。
・年俸1650万円
年俸の見直しは1年毎に行う。
・入社時に支払う一時金(サイニングボーナス)200万円
入社後直ちに一括で支払う。ただしAが1年以内に自発的に退職した場合には、全額P社に返還する。
しかしながら、Aさんは平成13年12月15日にA社を退職しました。そこでP社はサイニングボーナスの返還を求めます。しかしAさんはサイニングボーナスを返還する気はありません。
納得がいかない両者は争うことになりました。さて、両者の言い分はどのようなものでしょうか?
サイニングボーナスの趣旨について
Aさん
「このサイニングボーナスはP社から"支度金"あるいは"契約金"として支払われたものです。」
「当初P社への転職を渋っていた私に対して、前職を退職すると賞与が受給できなくなるという不利益を補填することにより、私がP社に入社する意思を固めさせるのが目的であったのは間違いありません。」
P社
「このサイニングボーナスは、一定期間企業に在籍することに対して支払われるものです。」
「1年以内に自発的に退職した場合には返還するよう定められているのもそのためです。」
「ましてこの制度は、役員や部長等の上級職については一律に適用されるもので、Aさんだけに特別に課したものではないのです。」
「したがってこのサイニングボーナスは、Aさんが言うように、前職を退職したことによる不利益を補填するための"支度金"や"契約金"ではありません。」
Aさんの退職が"自発的"であるかどうか
Aさん
「米国本社が会社更生法の申請をして、P社が独自に業務を継続する可能性はなくなりましたが、このような経営状況であったことについて十分な説明を受けていませんでした。」
「また、こういった状況を受け、デジタル印刷製品販売のマーケティングという本来の業務に従事できなくなり、売掛金の回収や残務整理等を行うしかありません。」
「私は自分の経歴を守るためにやむなく退職したのであり、"自発的"と言うべき余地などありません。それどころか、このまま退職の時期を遅らせれば遅らせるほど、私が転職する上で不利になるばかりですから。」
P社
「米国本社のアニュアルレポートをも渡して、十分に経営状況を説明しています。」
「また、Aさんはデジタル・イメージング部部長という役職であり、このような役職の業務がなくなるということはありえず、むしろ積極的に業務を作り出していく立場です。しかも、本来業務のプロジェクトは存続していますよ。」
返還するという規定の違法性について
Aさん
「1年以内に退職したらボーナスを返還しなければならないという約定は、経済的圧力を加えて退職の自由を不当に拘束することになり、労働基準法第5条で禁止されている強制労働※1に該当します。」
「また、1年以内に退職した場合の賠償額を予定していることにもなり、労働基準法第16条で禁止されている違約金等の予定※2に該当します。」
「したがって、この規定は無効です。」
P社
「Aさんは、入社してから退職するまでの半年間に、当社から825万円の報酬を得ています。」
「それだけもらっていれば、200万円ものボーナスを使わなくても、家族を含めて十分に暮らしていけるはずです。」
「ですので、サイニングボーナスを返還することによって生活が困窮するから、会社を辞めることができないということは考えられません。」
※1 労働基準法第5条(強制労働の禁止)
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
※2 労働基準法第16条(賠償予定の禁止)
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
さて、この訴えの結末は...
労働者側の勝ち:サイニングボーナスを返還する必要はない
【主旨】
サイニングボーナスは一定期間企業に拘束されることの対価
P社において、サイニングボーナスの給付及び返還条項は、一定の上級職の中途採用に際して、一般的に契約条項の中に定められるものであるから、Aさんの個別事情を斟酌して支給の有無を定めるものとは言い難いので、Aさんの主張するように不利益の補填であるとは言えない。
P社が説明義務に違反して、欺瞞的な就職勧誘をしたとは言えない
P社は、米国本社のアニュアルレポートを渡して経営状況を説明しているし、入社後には契約どおりデジタル・イメージング部の部長に就任させ、当該業務に従事させている。
また、米国本社が会社更生法の申請をすることを、秘匿していたことを認める証拠もない。
しかもP社自体は影響を受けないと言明していたのであり、プロジェクトは継続されているので、AさんがP社の経営が危機的であると自ら判断して退職したのに過ぎない。
いわゆる経済的足止め策も、労働基準法第5条及び第16条違反となる
労働基準法第5条及び第16条の規定の趣旨は、労働者の足止めや身分的従属を回避して、労働者の不当な人心拘束を防止しようとするところにあると解釈される。
したがって、いわゆる経済的足止め策も、労働者の意思に反して労働を強制することになるような不当な拘束手段であるときは、労働基準法第5条及び第16条に違反し、無効であるというのが相当。
今件は、労務の提供に先行して一定の金員を交付して、1年間会社に拘束することを意図した経済的足止め策に他ならない。
また、「自発的に」退職した場合に返還すると定めることは、違約金または賠償額の予定に相当する性質を持つことが認められる。
なお、サイニングボーナスの額は200万円であり、報酬の月額支給分の約2倍に当たる。一度支給された賃金をどのように使うかは労働者の自由であり、一度に100万円を超す金額の返還を求められれば、通常は退職を躊躇するのが相当である。
(参考判例)
日本ポラロイド(サイニングボーナス等)事件
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